池永マサモトさんのゴースト「真朱望楼」で二次創作させていただきました。 ありがとうございます。 例によって、キャラや設定が違っているかもしれません。 苦手な人は注意してください。 今回はユーザさんが真朱望楼を訪れるようになって何年か経った頃の話です。 作中に引用した漢詩、漢文は以下の通りです。 『客中行』 李白 『漁夫辞』 『刻舟求剣』『呂氏春秋』より ---------------------------------------------------------------------------- 壮麗で雄大な景観の中、西に傾いた白日を受け、真朱望楼は輝いた。 この楼閣で催される饗宴も負けず劣らず立派なものである。 卓を占めているのはいずれも絶品にして、その全てが健啖家の舌をも唸らせるであろう。 とりわけ秀でているのはやはり上等な酒である。 しかし、常ならば飲みたがらないイーシンが、友人の蛇であるツァイの酒盛りに付き合ったのは美酒のためではない。 また、ただの気まぐれでもなかった。 その内心を誰かに打ち明けた訳でもないのだが、時には妙なこともあるものだ。 満漢全席と呼ぶには程遠いにせよ、今宵の卓に並んだ珍味佳肴は奇しくも華々しいものばかりである。 しかし、イーシンの枯渇を満たすものにはなり得なかった。 日差しは真っ直ぐに楼へ差し込み、杯に満ちた酒は朱に染む。 イーシンがそれを手に取り喉を潤すと、最初に覚えたものは熱だった。 体の底から湧き上がる火照りは宛ら炎を飲んだようである。 酔いの感覚も終ぞ忘れていたものであった。 酒を口にしたことなど、長きに渡ってなかったから。 イーシンは気分をよくして、心の赴くままにお気に入りの詩の一編を諳んじた。 蘭陵美酒鬱金香 玉椀盛來琥珀光 但使主人能酔客 不知何處是他郷 そうは言っても、我等は久しくこの楼閣に留まっておる故、もはや故郷の名さえも思い出せぬ。 これでは、美酒も名折れであろうな―――― 戯言はいい。 急に酒を飲みたがるとは一体どういう風の吹き回しだ―――― これは、何もツァイに限った話ではないが、急いて事の核心に触れようとするのは男の悪い癖である。 もう少し、会話を楽しむ心意気を持ってもらいたいものだ。 しかし、このような態度も気心の知れた仲であるためと思えば喜ばしい。 この数年を思い起こせば、酒の相手をした記憶も長らく残ってはいなかった。 我は杯を置いた。 確かにそのような目で見れば、なるほど、ツァイにはどこか上機嫌な様子が伺える。 それならば何故、これまで酌の一つもしてやらなかったのかと悔いたのも今日が初めてのことであった。 我が胸奥を彼が知ったら、どれだけ恨みがましく思うことか。 我はツァイを見た。 今宵、彼の鯨飲馬食たるや、見慣れているはずの我でさえ驚き呆れる程である。 息苦しさを物ともしないで杯に顔を突っ込むや否や、見る見るうちに嵩が減っていく。 とうとう飲み干した後も、酒で濡れた顔を舌で舐めまわすあたり、余程なのであろう。 若しこれが人間だったならば、ザクロは酒樽をどれだけ備えねばならぬやら。 気立ての良い彼女のことだ、腐心するのは火を見るより明らかであった。 ツァイは満足して顔を上げた。 飲まぬのか、と言いたげな面持である。 今宵は、件の客人が訪れて以来抱いていた腹心を、此奴に示そうと思っている。 それだけのために我は苦々しくも酒を飲んだのだ。 ――――ツァイ、聞いてくれ。 ……なんだ。 我は、しばし旅に出ようと思うのだ―――― さしものツァイにも取り乱れた様子が見て取れた。 常ならば冷徹に構えるのだが、それを驚破するのはなかなか愉快なことである。 どうした、お前らしくもないぞ、イーシン―――― 我は頬杖をついて遠きに眼をやった。 まさに日が沈もうとしていた。 真朱望楼から眺める景色はいずれも壮大にして、我の言葉では到底語り切れぬものである。 不満を一つ零すとすれば、然程の変化も無いことだろう。 この地では四季の変化は見られない。 黄金に光る麦畑も、燦然と照らす太陽も。 脳裏に掠めた風光明媚の数々は全て、我が悠遠な彼の地に置き忘れてきたものであった。 今はただ平原が広がり、青々とした木々の間を風が爽爽と吹き渡るのみ。 三度首を回そうとも、この黒き眼に映るものはいずれも同じ景観ばかりである。 ――――真朱望楼に初めて訪れたあの時も、楼閣は今のような黄昏に輝いておったな。 目も眩まんばかりの姿を我が忘れたことなど一度としてない。 しかし、な。 我等がこうして楼閣に留まっておる間にも、時は移ろい、水は流れ、そして世界は変わってゆく。 滑稽な話だとは思わぬか。 絶えず変遷する此岸において、我等だけが時流を遡っておるのだ―――― 寧赴湘流 葬於江魚之腹中 安能以皓皓之白 而蒙世俗之塵埃乎   …………何を血迷っておるのだ、イーシン。 お前は、動乱と混濁を厭い、世俗を捨てた身ではないか。 巷塵の塗れる穢らわしき国土からようやく逃れ得た今、この楼閣こそ武陵桃源ではないのか。 あれ程までに欲していた孤高は既にお前の手中にあるのだ。 それを何故、みすみす捨て去ろうとする。 隠者でありながら何故、尚も濁世に遊ぼうとする―――― 舟止 従其所刻者入水求之 舟已行矣 而剣不行 求剣若此 不亦惑乎 …………水は流れなければ、ただ澱むのみ。 国も、仕来りも、人でさえも同じことよ。 変わり続けねば見えぬものがあるというのに、変わることを忘れた人間とは惨めなものだ。 変遷に楯突き、古い思考に固執した許りに無益な争いや諍いを招くことなど、往々にして起こり得る例ではないか。 刻舟求剣とはよく言ったものであるな、ツァイ。 何事もそうではないかと我は思うのだ。 お主ともあろう者が、この愚昧を何故解せぬ―――― ツァイは鎌首を擡げた。 あの人間に絆されたか―――― 流石はツァイである。 我が斯く考えるに至った所以を看破したのも、同郷の輩であるが故。 ――――だがな。 それはむしろ逆なのだ。 あの客人と語らい合わなかったらば、思慮の呪縛を悟ることもなかったであろう。 なあ、ツァイ。 今一度、考えてみてはくれまいか。 この楼閣のみで培われた智慧を以て、万事を賢しらに語り尽くすことの浅薄さを。 一辺倒な思考の軛に囚われて、新しき訓戒を得ることを忘れてはいないか。 確固たるも管見な志に絆されていたのは、他ならぬ我等ではなかったか―――― ツァイは尖鋭な眼で我を睨んだ。 よもや怒らせてしまったか。 しかし、我はもはや退くに退けぬ境地に至ったのだ。 あの者の話が蘇る。 鉄の塊が空を飛び、金属の車輪が地上を走る。 現世に住まう朴訥な客人の言葉で紡がれし俗の、何と新しきことよ。 我等にとっての未見が次々に語られたその時、我は己の矮小さを独り慚愧する他無かったのだ。 ――――幾何の期間を旅するつもりか。 まずは、三年。 この短期間で解るとは思わぬが、全ては現世の知見を得んがため―――― ――――出立は。 今宵、月が天の頂に昇るまでに―――― ツァイは眼を閉じる。 そして、呆れたように一息入れた。 ――――餞の一つを送ることさえも許されぬのか。 すまぬな……。 縦い一晩たりとも、今の我には惜しいのだ―――― ――――もういい、好きにしろ。 だが、もし、何も得るものがなかった暁には、お前を締め出してやる。 精々肝に銘じておくことだ、イーシン。 …………この恩は忘れぬぞ、ツァイ―――― イーシンは立ち上がった。 用意しておいた旅の荷を背負い、酒宴の席を後にした。 閂を外し、力を込めると音を立てて軋みこそすれ、扉とは案外容易いものである。 久しく閉ざされていた楼閣の門を手ずから開くのは何年ぶりのことであったろう。 果たして真朱望楼は宵闇に包まれていた。 既に日は落ち、夜は斯くも寒々しい。 しかし、胸に再び灯された火が体を温めた。 イーシンは前を睨んだ。 目指すべき月は遥か稜線の上に浮かび、青白く光っている。 この夜の先に己の求めるものがある。 うかうかと眺めていては得られるものも得られず、何も変わりはしないのだ。 イーシンはそう信じて、再び歩み始めた。 その足取りは確かで、二度と振り返ることはなかった。