============================================================================                 〜廃墟の魔女〜               ―黄金郷と薔薇十字団―               ============================================================================ それは、すべてが焼き払われてから、早くも数ヶ月が過ぎた頃のこと。 最後に馴染んだ村を離れた二人の姿は、遥かに遠い東方への旅路にあった。 二人は、これといった会話もしないまま歩いた。 雪の覆う白い山脈を遠目にやりつつ、木々や草花の色に囲まれた、なだらかな道を進んでいく。 小高い丘の上で立ち止まり、そこから続く道の先、眼下に広がる町並みを眺めた。 「あれが、人間の町か……」 片方の少女がにぎやかな町の光景に驚きの声を上げる。 彼方まで望もうとして、被っていたフードをおろして溢れた髪が丘を馳せる風になびく。 髪の間から生えた狼の耳は優しい風を受けて、くすぐったそうに動いていた。 人間というには及ばずとも、獣というには人間らしく、他とは異にするその姿。 それを見たもう一人は、三角帽子を風に飛ばされないように、手で押さえながら問いかけた。 「見るのは初めてでしたか?」 帽子の下からは赤い瞳が覗いていて、黒い衣装を纏う少女の名前はフィリア。 今は人の姿をしている狼――ネイコスを使い魔とする魔女だ。 「小さい村なんかは何度も見てたけどね。こんなに大きいのは初めて」 おおかた人間の町を期待しているのか、それきりの返事をしたあと、食い入るようにして町を見ている。 そんな楽しげな様子の相棒に、フィリアは苦笑いを見せた。 「残念ながら、ここで観光している時間はありませんよ」 「じゃあ、今日はどこまで行くのさ。ザクセン? バイエルン?」 ネイコスがむくれながら言った。 「もう少し行くと、ヘッセン=カッセル方伯領が見えてくるはずです。しばらくはそこで宿をとりましょう」 「どうせなら、もっと有名なところがよかったな……」 フィリアもそれは同感だった。 大きな町なら宿はいくらでもあるだろう、商店街にもさまざまな品物が流通しているはずだ。 しかし、主要な王国に入るのは避けたいのが現状だった。 魔女が災いをもたらすものとして知れ渡ってからというもの、各地では魔女狩りが日々行われるようになってしまった。 そんな中を、魔女であるフィリアは表立って街道を歩くわけにもいかず、数日で行ける距離にある町へ向かうのにも、わざわざ遠回りをするこの道を選んだのも当然のことだった。 人目を避けなくてはならない寂しさを抱えながら、しかしフィリアは気丈に振舞うので、ネイコスも現在の風潮や習慣についての不満などは何も言えなかった。 ネイコスは名残惜しげに繁華な町並みをもう一度見つめたあと、すでに先を歩いていたフィリアを追いかけていった。 ---------------------------------------------------------------------------- そこからさらに数時間、二人はようやくカッセルの町についた。 レンガを敷き詰めた石畳の道を抜けると、露店が並ぶ広場があった。 町に入る前に、二人は庶民の服装に着替えていたので、不自然に目立つことなく、暖かなオレンジ色のレンガの壁の建物が映える町並みに溶け込んでいる。 フィリアは、長袖のボディスとスカートに身を包み、ネイコスは頭に白いスカーフを巻いている。 その二人が並んだ様子は友人と買い物をしているような光景だった。 「お嬢ちゃんたちは楽しそうだねえ」 果物や野菜を扱う露店の、屋根代わりにしたテントの下で、壊れかけたスツールに腰掛ける中年の女性が声をかけた。 本来ならばもう少し若いのだろうが、気苦労の多そうな顔のせいで、実年齢よりも老け込んで見える。 ため息混じりの疲れた声に、ネイコスが答えた。 「おばちゃん、もしかして売れてないんじゃ」 「もしそう言ったら、あんたたちは買ってくれるかしらね」 「そうですね……。夕食の材料にするつもりですが、お安くなりますか?」 バスケットに入っていたりんごを手に取って、冗談めかしてフィリアが言った。 つやのない、どことなく色あせているりんごだ。 植物にも心はあると言うが、まさかこの店主の心が伝わっているのではないだろうか。 そう思わせるほどに、りんごは寂しげな色をしていた。 「半額ならどうだい」 「5個いただきます」 「……毎度あり」 店主は受け取ったわずかばかりの売り上げをポーチに入れた。 音がなるほども入っていない小袋の中身を繰り返し見ては、苦々しげな顔をして言うのだ。 「こんな時期じゃあ、果物の売れ行きも悪くてね……。疫病の流行、経済の不況、気候の寒冷化による凶作。それでも領主様は、あたしら民を助けるどころか、くだらない戦争に明け暮れる毎日。あげく重い年貢を取り立てる始末さ」 大儀そうに立ち上がるも、言われた数のりんごを袋につめて手渡した。 「悪魔や魔女が災いを起こしているという人もいるそうじゃないか。そんなくだらない迷信のためにいったい何人が無実の罪で死んだことか」 そう言い終わるや否や、ぐったりと座り込んでしまった。 ひどく落ち込んだ姿は、糸の切れたマリオネットを彷彿させる。 「もう、この国も終わりかもしれないねぇ……」 たったその一言を呟いてそれきり黙りこんでしまった。 どこへも逃げられない目の前の悲痛な店主よりかは、逃げられるだけの立場にあることでさえ、二人には救われていると思わせる。 なにしろ二人は放浪の旅を続けているだけなのだから。 あいにくながら、親切にかけてやるほどの言葉などは持ち合わせてはいなかったのだ。 いつ終わるともしれない災害と不幸の連続に人々の心は不安と混乱に陥ってしまい、昼間だというのに人の少ない市場はおろか、町全体からもかつての活気が失われつつあるのだった。 普段なら空高くまで晴れ渡る透き通った青色も、今日に限っては日差しを通さないほど厚く、今にも振り出しそうな黒雲に覆われている。 どこまでも続く悪天候が、ヨーロッパの全土に暗い影を落としていた。 そういえば、フィリアもまた長らく青空を見ていないことに気がついたのだった。 店主にはわからない二人だけの気まずさに沈黙したあと、立ち去ろうとしたそのときだ。 「私は魔女じゃない!」 悲鳴も同然の弁解の声を聞いたのは。 それにつられて見れば、とある女性が、鋭い眼光を放つ男に腕をつかまれている。 その男は縄を備えた兵を数人ばかり引き連れていた。 「そんな言い逃れが通用するものか。野生の犬の保護、煙突からは黒い煙が上がっていた。これは神に問うても紛れもない、使い魔の飼育に怪しげな黒魔術の薬を作っているに違いない。一人での生活も、人から隠れて魔術を使うためだ。証拠はいくらでも出てくるだろう。お前には拒否するだけの権利はない」 男はおいと指示をして、兵に女性を捕らえさせる。 その間も捕まるまいと暴れていたが、訓練を受けた兵の腕力には到底かなわなかった。 「卑怯者め!」 「ほう、魔女も命が惜しいか」 「もしも私が本当に魔女だったら、処刑されるとわかっていても、捕まる前にお前みたいな悪党を呪い殺してやったさ!」 男は暴言をぶつけられてもいきり立つこともなく、冷徹にも言葉を続ける。 「裁判では犯した罪を洗いざらい話してやる。そして火刑に処せられることになるだろう。喜べ、女。お前は望みどおり本当の魔女になれるのだ」 その言葉を聞いて、手首を背で縛られながらも食いかかりそうなほどに激昂する女性を、鼻で笑ってあしらった。 「牢まで連れて行け」 無理やりに歩かせようとする兵に、彼女はなおももがいて逃げようとしたが、大きめのナイフを首もとに当てられては抵抗を諦めざるをえなかった。 男はその様を見て満足げに笑うのだった。 「あいつ……!」 その一連のやり取りを離れたところで見ていたネイコスが、まず最初に口を開いた。 フードに隠れてはいたものの、その下の髪は、威嚇する獣の逆立つ毛並みのようにざわめいていたに違いない。 「やめておきな。厄介なことに首は突っ込まないほうがいい」 そこで先ほどの店主がネイコスの方をつかむ。 彼女にとっては珍しくもない日常的な光景であったからだ。 「あの男はマシュー・ホプキンス。この国の領主様に召されて東イングランドからきたそうだよ。巷じゃ魔女狩り将軍と名乗っているらしい」 「魔女狩り将軍?」 「自ら魔女狩りの任務の命を受けたと吹聴し、莫大な手数料をとっては魔女を摘発する専門家さ。命が惜しけりゃ、あの狡猾な男には関わらないようにするんだね」 それだけ言い残して彼女は逃げるように店の奥へと入っていった。 「あんな証拠、ただの偽証だよ……!」 「…………落ち着いてください。ここで争いになるようなことはやめましょう」 「でも! ……フィリア!」 ネイコスは忠告を受けてもさらに反発したが、それきり口をつぐんで立ち尽くす様子に言葉を失った。 表情は帽子の陰になって見えなかったが、固く握り締めた一方の手が、無言のままに震えていた。 ---------------------------------------------------------------------------- 宿に戻ってからも二人の気分は最悪だった。 今夜の深い闇よりも暗いなにかが心に満ちていて、いつになってもその霧は晴れないままだ。 ネイコスが気分転換に夜空を見上げても、星の瞬きのひとつさえ見えないでいた。 フィリアは粗末なベッドに腰掛けながら本を読んでいた。 これも歪んだナイトテーブルの上に置いてあった本は、クモの巣の張った部屋には似つかわしくないほどの装飾をされていた。 「……何それ」 「『魔女の鉄槌』という本です。その発見と証明のことが書いてありました。魔女の存在は、ずいぶん変わってしまっているようですね……」 小さな声は静かな部屋に大きく響いた。 なぜこんなにも貧相な部屋に、その本だけは新品のままに置かれていたのか。 それを考えると空しくなっていき、胸のうちに広がる霧はますます濃くなっていくばかり。 ネイコスはそれがどうしても嫌で、つい口を開いた。 もちろん、昼間のことについてだ。 「助けにいかなくていいの?」 「助けたところで、狩りがなくなるわけではありませんから……」 「なんだよ、それ」 だからといって見捨てていい理由にはならない。 そんなことは百も承知だったが、フィリアはそれを指摘されても動こうとはしなかった。 否、動きたくなかったのだ。 「まだ、あのときのことを……?」 「…………」 ネイコスの言わんとしていることは図星だった。 村の、最後の光景がフィリアの脳裏をかすかに横切る。 思い立つたびに、そのときの記憶が蘇っては彼女を苦しめるので、魔法を使いたくなかったのだ。 それどころか関わることにも忌避を感じるようになった心境の変化を、ネイコスは知ってか知らずか的確についてくることに彼女との繋がりを感じたが、今に限ってはそれさえも遮って一人になりたいと思ったのだった。 しかし、彼女の言っていることはもっともで、同じ境遇の人を見捨てるのは後味が悪くて嫌だった。 自分でもそのことをおぼろげながら理解していて、余計に苦悩したことが返事を先送りにしてしまっていた。 黙ったままのフィリアを見て、追求することをやめたネイコスは、おもむろに窓を開けた。 「フィリアが行かないなら、あたしが行ってくる」 それだけを言い残して暗い寒空の中へ飛び出していった。 「ネイコス……? もう……!」 フィリアは慌てて彼女の後を追った。 もちろん、ためらなかったわけではない。 事が済んでから何もしなかったことをあれこれと考えてはその場合が怖くなる。 だというのに、フィリアは悩まずにはいられないことがほとんどだ。 しかし、そんなときに言わずとも真っ先に動き出したのはいつもネイコスだ。 今日もそうだったことに気づいたときには、すでに体が走り出していた。 ---------------------------------------------------------------------------- 「結局ついてきたんだね」 「誰のせいだと思って」 「さあね?」 追いついてすぐそう言われたので、フィリアは苦笑で返した。 「何か策があるんですか?」 「……行けばなんとかなるよ」 どうやら何も考えずに飛び出したようだ。 あまりに向こう見ずな行為だったので、フィリアは呆れた様子で笑った。 夜中の広場を抜けて、例の女性が連れて行かれた道を進む。 目立たないように物陰や家々の路地裏を通っていくと、やがて昼間でも人の少ない町の一角が現れた。 周囲には明かりは灯っておらず、警備兵の姿もなければ、ネズミの一匹も見当たらない。 廃れた町並みばかりが連なる中に、よりいっそう寂れた建物があった。 入り口の脇で燃える松明の火が、建物のところどころに入ったヒビを照らし、その隙間に作られた巣穴からはトカゲが出入りしている。 重厚な扉の前には、見張りの番をしているであろう兵が数人。 鎧には、魔女狩り将軍が引き連れていた兵と同じ紋章が刻まれていた。 「警備は思ったより薄いみたいだね」 ネイコスが物陰から様子をうかがう。 「牢にしては建物が小さい。おそらく地下牢があると思うのですが」 フィリアは隠れながら辺りを見渡したが、入り口と思しき扉は兵の背後にあるだけだった。 ほかの建物と壁で繋がっているが、その建物も二階から上が崩れていて、見つからないように入り込むのは不可能に思える。 「正面突破しかなさそう」 「それにしたって、見張りが少なくなる時間を待つほうがいいでしょうね」 二人はそのまましばらく待ち続けた。 時計がないので正確ではないが、すでに数時間は過ぎただろう。 兵は一人、二人と減っていき、ついには扉の脇に兵が二人だけ残った。 その二人も途中で別の二人と交代したきり、数はもう変わりそうにない。 フィリアは待機を続けるのは無駄だろうと見切りをつけた。 長い緊張をといて、ふと向かいの建物に視線を移すと、割れたガラスの窓から人影が見えた。 いつからそこにいたのかはわからないが、人影もまた見張りを確認しているらしい。 自分たちと同じく物陰から様子をうかがっているようだ。 「ネイコス、ちょっと……」 夜目の利く狼ならば、と判断して声をかけたのだが、あいにくネイコスはすでに寝てしまっていた。 助けようと言い出した張本人の寝姿を、フィリアは少しだけうらめしく見つめた。 人影をもう一度探そうとして、それが消えているのに気がついた。 (いつの間に?) ほかの窓にも同じ影はない。 暗闇に紛れていたので何かと見間違えたのだろう。 フィリアはそれが気にかかりながらも、そのときはそう思うことにしたのだった。 ---------------------------------------------------------------------------- 夜が明けてすぐ、二人は再び広場にやってきた。 牢に侵入するのに必要な道具を調達するためだった。 ロープや火薬、油、盗賊が使う道具なども用意して、不備のないことを確認していたとき、ちょうどそれは起こった。 誰がばら撒いたかは定かではなかったが、曇り空から振る雪のように、ふわりと降りてくるたくさんのポスター。 広場にいた人々は興味深そうに拾い上げ、フィリアも目の前に飛んできた一枚を手に取った。 「なんて書いてあるの?」 「ええと、全世界の普遍的かつ総体的改革……」 「ごめん。要約してくれないかな」 返事はなかった。 答えるまでもなく、その文章の内容に目を奪われていたからだった。 フィリアは忙しそうに目を動かし、一行読み終えては、次々に文章を読み進めていった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 世界は今や破滅の危機を前に、しかし我々人類には成す術もなく、ただ終焉を待ち焦がれている。 人を救わんとする教えさえも、それを司る者は悪戯に欲を貪り、弱き者は悪しき力の前に屈するばかりである。 世界の平穏と、人類の避けられざる死と恐るべき病からの永遠の解放を求める、魔術を用いての我々の活動は、かつて汝たちには知られざる謎であった。 だが、120年の歳月を経て、とうとう『彼』はお目覚めになったのだ。 我々は、その存在を白日の下に晒し、そして真の正義を以って世界を救済せんことをここに宣誓しよう。 我々は、活動の支えとなり、共に戦う勇敢なる者の入団を歓迎する。 我々は、薔薇十字団。 世界を人類の望む理想郷へと導く者なり―――― 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 フィリアが声にして読み上げた文章の意味を、ネイコスは驚いた表情で考えていた。 無理もなかった。 急におとぎ話のような内容の文章を見て、広場の人々は驚いた様子だった。 二人もそれと同じ、いや、それ以上に衝撃を受けたに違いない。 しかし、二人が沈黙した次の瞬間には、広場全体に歓声が沸きあがっていた。 広場には多くの人が集まっていて、それぞれに抱き合ったり泣いたり笑ったりして喜んでいる。 失われた活気が戻ってきたかのようだった。 その中で、突然に怒声を轟かせる人物がいた。 そう、悪名高き魔女狩り将軍、マシュー・ホプキンスその人だ。 「ふざけるな! 魔術は悪魔と協力して行う、決して許されぬ闇の力だ。そんなもので世界を救うだと? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある!」 人々は一挙に押し黙ってしまった。 誰も、マシューには逆らえないのだ。 「そんな愚かな組織など、魔女共々、この俺が直々に裁きを下してやろう!」 足元に落ちた紙を、マシューは踏みにじる。 「聞こえているか、ローゼンクロイツ! この手で必ずや、キサマを地獄に葬り去ってやる!」 はずむように明るい雰囲気を切り裂いて、彼の言葉は町中に響き渡った。 彼が立ち去った後も、そこに残された静寂だけが、獲物を逃がさないクモのそれよりもしつこく糸を引いている。 広場にいた人はまばらになり、二人が我に返ったころには、すっかり元の重苦しい町並みに戻っていた。 「誰、ローゼンクロイツって……」 ネイコスが思い出すように呟いた。 「薔薇十字団の創始者は、C・R・C。おそらくその人、でしょうね」 「そいつが、マシューに何かしたって言うの……?」 「それはわかりませんが、この機を逃す手立てはありません」 不敵な笑みを浮かべながらそう言ったフィリアを、ネイコスは黙って見つめていた。 今日の空には、珍しくも現れた雲の裂け目から一筋の光芒が差している。 ---------------------------------------------------------------------------- 「いよいよだね」 「ここを突破すれば、魔法でどうにかなるのですが……」 二人はすでに地下牢の入り口となっている建物の前まで来ていた。 昼間のこともあって警備を強めたのか、昨夜よりも兵の人数を増やしたようだ。 建物の内部にもいるであろう兵にも気づかれず、扉の前の兵を退けるにはどうしたらよいだろうか。 二人は身を潜めつつ考えていた。 「待って。なんだか様子が変」 ネイコスの言葉に思いとどまって確認すると、すべての兵が扉に向かって剣や槍を構えている。 さらに耳を澄ますと、その向こうからは何かがぶつかるような物音に気がついた。 ついに突入しようとしたとき、扉は鈍い音を上げながらゆっくりと開いた。 奥に何を見たのか、兵士たちは急に力が抜けたように倒れこむ。 そうして、その人影は姿を現した。 全身を黒いローブで身を包み、深くフードをかぶって顔を隠した人で辺りは埋め尽くされた。 彼らは周囲に人目がないことを確認すると、音も立てずに深い夜に消えていった―― 「追いましょう!」 フィリアは弾かれたかのように走り出していた。 驚いたネイコスがあとに続く。 「危険なやつらだったらどうするのさ!」 「あの中に女性がいました。おそらく、昨日の!」 通りを横切り、墓地を抜け、まだ訪れたことのないところを二人は走っていた。 気がつけば道は次第に細くなっていく。 小さな火だけが灯った十字路で立ち尽くしてしまい、いずれの通路もともすれば吸い込まれそうな闇に満ちていた。 集団はどちらへ進んだのかは皆目見当がつかないでいる。 「見失ってしまいましたね」 フィリアは息も切れ切れに呟いた。 かなりの距離を走ってきたので、心臓の拍動は異常なほどに早かった。 「そうでもないみたいだ……、来る」 その言葉が合図となった。 ゆっくりとした足音を闇に響かせ、目の前の闇に人影が見えた。 フードが作り出す影の奥の表情はうかがい知れない。 それも一人ではなく左右の通路にも、今も進んできた後ろの道からも現れる。 「我々を追いかけてくるとは、……何が目的だ?」 「お前らこそなんなんだ!」 フィリアは無言で前へ出た。 飛びかかりそうなネイコスを制した腕がわずかに震えている。 魔法が使えても、フィリアは非力な人間の少女に過ぎない。 だが、一度対峙してしまえばそんなことは関係なかった。 このような駆け引きでは弱みを見せてはならないことを、彼女はよく知っている。 フィリアは正体もわからない暗い影に正面から向き合った。 「あなたたちは、薔薇十字団ですか?」 「…………」 そのままにらみ合いが続く。 次にその人物が口を開くまでには時間がずいぶん経ったようにフィリアは錯覚した。 「まさか、魔女か?」 男の声だった。 なぜわかったのか、フィリアは今も昨日と同じ服装をしている。 酒場にいる給仕の娘には見えても、それが魔女だとわかるはずがない。 「答えてください」 しかしフィリアは動揺を見せない。 「……君の言うとおりだ」 その人物が肯定すると、他の団員たちが顔を見せる。 屈強そうな男も、美しい女も、厳格な老人などさまざまあり、フィリアが見た女性の姿もあった。 「我々は、世界を理想へと導く使命を与えられた者……。彼らで構成されたそれこそを薔薇十字団と呼ぶ――」 最後にその人物がフードを取り払る。 凛々しい顔立ち、端整な眉。 フィリアをまっすぐに見すえる眼差しは一閃、鍛えられた剣よりも鋭い光を放つ。 まだまだ若く見える容姿だが、どこかに老獪さを含んでいた。 「そして私は薔薇十字団の団長。……サンジェルマンだ」 ============================================================================ 「…………なんだか、怪しいんだよなあいつ」 窓から差し込む弱々しい朝日を浴びながら、まだ眠たそうなネイコスが言った。 フィリアはサンジェルマンと会ったときのことを思い返す。 あの後すぐに自分たちも名乗り、彼に招かれた先の薔薇十字団の本拠地で夜を明かしたのだった。 今はその一室を借りてゆったりと過ごしている。 「私には意志の強い殿方だと見受けられましたが」 フィリアが弁護した。 自分たちが魔女と使い魔であり、魔女狩りから逃げて旅をしていること。 フィリアはもう悲劇が繰り返されないことを望んでいると話すと、サンジェルマンはすぐに納得した。 聞けば、団員にも同じ立場の人間は何人もいるといい、彼自身も命を狙われることがあるそうだ。 そんな彼にネイコスは団長をやめたらどうだ、と冗談を言ったのだが、それを真剣に、また丁寧に断られたのだった。 「あの目が気に入らない。なにか企んでる気がする」 それでもなお否定するネイコスがフィリアには気にかかったが、あまり言い返すこともできずにいた。 もちろんサンジェルマンはまだ会って間もなく、何より他の誰でもないネイコスがそう言うのだから。 そこで、ドアをノックする音が響く。 フィリアが返事をしてドアを開けると、そこには見覚えのない女性がいた。 「失礼します。主人に代わりまして私が参りました」 フィリアは昨夜、挨拶を交わした団員の中にこの女性がいたことを思い出す。 そのときにはサンジェルマン伯爵の使用人だと話していた。 どうしても名前が出てこなかったが、そのことで戸惑うフィリアにその人は気がついたようだ。 「アンネリーゼ・ブランケンハイムと申します」 「ブラン、ええと……」 「……覚えなくても大丈夫ですよ」 ネイコスはそこで初めてアンネリーゼを見つめた。 フィリアが成長したらこんな人になりそうだ、それがネイコスの感じた最初の印象だった。 そう思えるような雰囲気がよく似ている。 それなのに、容姿だけは似ても似つかないな、とネイコスは思った。 そんなネイコスを尻目にフィリアは話を続ける。 「何かご用ですか?」 「昨晩、伯爵が仰っていた件についてです」 フィリアは薔薇十字団についてサンジェルマンから詳しく聞いていた。 目的はすでに町の人々に膾炙しているところだが、それには人手が少なく、効率が悪いという。 そのためにフィリアにも入団の声がかかったのだが、返事を今日まで待ってくれたのだった。 もっとも、フィリアに断る理由はなく、ポスターを読んだときから心に決めてはいたのだが。 「では、伯爵にはそのように伝えます」 それから一礼し、アンネリーゼは踵を返した。 立ち去ろうしてドアに手をかけたところで、フィリアが思い出したように言った。 「……1つだけ聞いてもいいでしょうか」 アンネリーゼは振り向いた。 何も言わないが、次の言葉を待っている様子だ。 「あなたの主人は本当は何歳なのでしょう?」 「それにはお答えできません。私はたったの500年しかお仕えしていませんから」 ---------------------------------------------------------------------------- 「本当にやるの?」 フィリアはネイコスをちらりと見た。 部屋にあった手ごろな椅子に座って不満そうにしている。 「私は本気ですよ」 そう言いながら、用意したハーブを煮えたぎる液体の中に入れた。 ひとひらの葉からにじみ出る成分は吸収され、アラベスクの装飾を施された釜の水は、澄んだ青へと変わっていく。 いつもするのと変わらない、ポーションの調合だ。 手順はすでに覚えているのでレシピを見ずとも体は勝手に動いている。 「もとを言えば、先に行動したのはあなたですよ?」 「こんなことになるってわかってたらもっと慎重になってたよ……」 ネイコスは改めて己の性格に後悔したのだった。 やれやれとため息をついたそのとき、誰かがドアをたたいた。 「どうぞ」 手を離せないフィリアの返事を聞いて入ってきたのはサンジェルマンだった。 「失礼する。……どうかね、薬のほうは」 薬を作ること、それが団員としての最初の仕事だ。 各地に病に苦しむ人がおり、それを助けるのも薔薇十字団の目的だ。 直接あって魔法による治療を行うこともあれば、薬を渡して行うこともある。 それらはすべて無償であり、その起源は創始者のローゼンクロイツの活動にあるという。 フィリアは、そのための治療薬の作製を依頼されたのだった。 「完成しました」 フィリアはポーションを小瓶に移してから手渡した。 フィリアは錬金術を使いこなしているが、サンジェルマンにとってはそれは衝撃だった。 魔力も元素から成り、それを用いて足りないものを補いつつさまざまなものを作り出すのが彼女の錬金術だ。 知識にはあったが、それを初めて目にした彼は目を光らせたものだった。 「これで5人分ぐらいになると思います。……材料さえあればもっとたくさん作れるのですが」 「嘆いても仕方ないことだ。自然が相手ではね」 そう言って笑うサンジェルマンの目を、フィリアは改めて見つめた。 ネイコスの言うような邪心は見られない。 「進んでただ働きなんて、物好きもいいところだね」 「せめて、慈善事業と言ってほしいものだな……」 しかしネイコスは相変わらずの態度だ。 攻撃しようとまでは思っていないのはフィリアにもわかるのだが、遠まわしな言い方だけはやけに目に付いたのだった。 「では、用件だけ伝えて早めに退散するとしよう。……どうも、そちらの使い魔さんには歓迎されないようだからね」 サンジェルマンは苦笑した。 「次の任務は、我々が昨日の地下牢から助け出した女性の警護だ」 「警護?」 その女性は助けられた後、すぐに彼女の家へと送られたらしい。 ただし、外部からは団員が見張っている。 魔女の疑いはまだ晴れたわけではないのだ、再び捕らわれないようにするための警護だった。 フィリアはその仕事を少しだけためらった。 「……マシューは、なぜ魔女狩りをしているのでしょう」 「魔女裁判で摘発が認められれば、財産を没収できる……。つまり、金のためさ」 もしそうなら、村はそのために滅ばねばならなかったのか。 フィリアは手を握りしめた。 爪のあとが残るほどに、固く。 そしてサンジェルマンは警護に必要な情報が書かれたメモを渡した。 「頼んだぞ」 サンジェルマンは二人の部屋を後にする。 それからもフィリアの頭の中では、その答えだけがいつまでも響き続けていた。 ---------------------------------------------------------------------------- 二人が向かうはずの家は町のはずれにあった。 人もあまり通ることもなければ、店もない。 これなら家の持ち主が何かをしても、知られることはほとんどないだろう。 魔女を摘発し狩りを目的とする人間にとって、ここに住んでいる女性は絶好の相手だったのだ。 「いつまで続けるの?」 「交代の方が来るまで、とメモには書いてありますが」 「いつ?」 「……日が変わるまでには」 ネイコスは疲れた様子で木陰に座り込んだ。 仕事は嫌ではないが、じっとしているのは苦手のようだ。 つくづく狼らしいと感じつつも、フィリアは交代が来なくてもいいと思っていた。 「あ……、あの人が出てきたよ」 その女性は桶を持って、家の目の前にある井戸へ向かった。 滑車から井戸の中へ垂れるロープを引くと、水の入った桶があがってきた。 「ただの水汲みか……」 フィリアもそう思って目をそらそうとして気がついた。 自分たちと同じように女性を見張っている男の姿があったのだ。 それにおぼろげながら気づいた瞬間、男が腕を振った。 女性は不自然に倒れた。 普通の人間ならわからなかったかもしれない、しかしフィリアは魔女だ。 魔法が使われたと気づくのに、時間はいらなかった。 「待ちなさい!」 その声に驚いたのか、その女性に近づこうとしていた男は逃げていく。 「ネイコス、その人をお願いします!」 「わかった!」 男はさらに人気のないほうへ走った。 迷路のような道を右へ左へ、坂を上ってまた角を曲がる。 フィリアもそれを追って同じ角を曲がった、その直後、とっさに身をかがめた。 一筋の光が、その頭上の空間を射抜く。 続けて飛んできた光の矢を、フィリアは魔法による盾で防いだ。 「薔薇十字団か!」 舌打ちするその男をにらんだ。 マシューではない。 しかし、あの女性を狙っていたことにも間違いはない。 「あなたは何者ですか! どうしてこんなことを!」 「お前たちに語ることなどない!」 男が殺気立って叫んだ。 口を挟む余地もなくまくし立てる。 「悲劇は続く! お前たちの上司に伝えておくがいい!」 言い終わると、男は杖を振った。 「――ッ!」 杖が強烈な光を放つ。 フィリアは思わず、目元を覆った。 少しして光がおさまり、気がつくと男は立ち去ったあとだった。 フィリアはその場に膝をつき、そして力任せに地面を叩いた。 あとにネイコスが追いつくまで、いつまでも。 ---------------------------------------------------------------------------- 「どうやら、ただ働きをせずに済んだようだな?」 「報酬はあたしがもらうわけじゃないんだけどね?」 ネイコスが言い返すと、サンジェルマンは苦笑して肩をすくめた。 一方、フィリアはというと帰ってきてから一言も声を発していないままだ。 「彼女を守り、お礼まで残すほど感謝されたのだ。もっと誇ればいい」 その女性は、サンジェルマンが断ったにも関わらず、報酬を残していったという。 どうしてもと願い出るので、やむを得ず持ってきたのだが、フィリアは一向に受け取ろうとはしなかった。 「私は、報酬のために守ったわけではありませんから……」 こんな調子が続いているのだった。 サンジェルマンはもとより、ネイコスにもフィリアが悄然とする理由がわからないでいた。 「見てよ、これ。金のブローチだよ。大切なものだったんじゃないかな」 ネイコスはそう言いながら、フィリアが羽織っているマントをブローチでとめた。 金のブローチはマントの生地が黒いだけにいっそう映えている。 フィリアはそれを一瞥しただけで、外そうともしなかった。 「新大陸にあると言われている黄金郷を知っているかね?」 サンジェルマンがおもむろに話し始めた。 「かつて、コンキスタドールたちの間で囁かれた伝説だ。そこには使い切れぬほどの黄金が眠っているという」 ネイコスは怪訝な顔をしたが、フィリアの気を紛らわすことができればと思って話をあわせることにした。 「あたしも聞いたことはあるな。でも、ただのうわさじゃない?」 「伝説に過ぎないのかもしれない。だが私は信じている」 サンジェルマンは目を輝かせた。 見返りを求めない薔薇十字団の団長の言葉だけに、その返答にはネイコスも驚かされたのだった。 「もし本当にあるとすれば、それを狙う者たちによって無意味な血が流れることは目に見えている」 金の価値はよく知られている。 フィリアが得意とする錬金術も、元をたどればそれを目的としたものだ。 錬金術師を名乗る人間が、実験という名目で貴族から金を巻き上げていたのは言うまでもない。 そうして身を滅ぼした人間を、二人は何度も目の当たりにしてきたのだ。 「だからこそ、我々が封じねばならないのだ。人の手が及ばぬよう、永遠に」 サンジェルマンは続ける。 「私は近いうちに新大陸に渡るつもりだ。そのときは、君にも一緒に来てほしい」 その言葉と共に差し出された手を、フィリアはどうしてもとる気にはなれなかった。 「……また今度でいい。いい返事を期待しているよ」 空しい手を振りながらサンジェルマンは席をはずす。 あとには沈黙が残された。 「…………もう、いいよ」 一向に無反応なフィリアを見て、ネイコスは深くため息をついた。 サンジェルマンを追うようにして出て行ってしまった。 自分でも何をしているのかがわからなかった。 何のためにつまらない意地を張っていたのか、そんなことのためにもっとも信頼できる相手さえも失った。 誰が見ているわけでもない、それどころか中身のともなわない強さでごまかしてきた相手も今となってはもう、いない。 しかし、感情をあらわにするのはどうしても嫌で、今夜は早くもランプの火を消してベッドにもぐったのだった。 窓を覆うカーテンの隙間から差し込む月の光だけが、椅子の背もたれに投げかけたシルクの夜に浮かんだブローチを寂しく照らし出していた。 ---------------------------------------------------------------------------- 「薔薇十字団に団員が増えただと?」 マシューは赤いワインを片手に言った。 「あのときに目をつけた女、いつの間にか脱走してやがった。もう一度捕まえなおそうとしたら、今度は魔法を使う小娘に邪魔された。間違いない、ありゃあ薔薇十字団が先回りしていたんだ。クソッ、忌々しいやつらだ」 昼間、フィリアと一戦を交えた男、ジョンが悪態をついた。 マシューと組んで魔女狩りを押し進めている男だ。 マシューはその狼藉さをあまり好ましく思ってはいないが、そんな男でも役に立つことはあるらしい。 現に、彼の話に現れた小娘が気にかかったのだ。 「そういや変わった魔法を使っていたな。あいつ、何者なんだ?」 ジョンは先ほどのことを思い返した。 その少女は彼と同じく杖で魔法を使ったが、攻撃を防ぐ盾の魔法を見たことはなかった。 いや、厳密には盾でさえなかった。 ぼんやりと光る魔法陣を壁代わりにした、一風変わった魔法だったのだ。 「何者であろうと、この俺に弓引く愚か者は殺す。それだけだ」 ジョンはこのとき、マシューを憎んでいた。 仕事の邪魔をされたときよりも、この男の思い上がるような口ぶりには腹の底が煮えくり返る思いがしたのだった。 「次にその小娘を見つけたら、すぐに報告しろ」 ジョンは声を荒げた。 「俺に指図するんじゃねえ! 俺は俺で勝手にやらせてもらう!」 「……好きにしろ」 「上等だ!」 散々に怒鳴ってすぐジョンは部屋を出て行った。 後ろ手に閉めたドアは、とめ具が外れんばかりの音を出していた。 ジョンはマシューに逆らえないだろう。 そう踏んだので泳がせておくことにしたのだった。 マシューはその様子を無表情に、凍るような眼差しで眺めていた。 ---------------------------------------------------------------------------- いくぶんも気が晴れないままにフィリアは薔薇十字団の任務に当たった。 ネイコスはどこかへ行ったまま、二、三日が明けた今日になっても戻っては来なかった。 使い魔は彼女一人だけだったので、当然自分だけの仕事になった。 今になって考えれば、小さなことで悩んでいたものだと自分の惨めさをあざ笑った。 身近にはもっと重い苦悩を抱えた上司がいるのだと、そうやって自分に言い聞かせたのだった。 そういえば魔女狩りに関しては数日は穏やかな日が続いている。 最後に一悶着を起こして以来、何の音沙汰もない。 もうしばらくはこんな風に世界が続いてほしいと切に願った矢先だった。 「くだらない。平和など、何も生み出しはしない」 仕事を終えた帰り道、立ち止まって考えていたフィリアの背後には、男がいた。 そうだ、あのときの女性を狙っていたあの男だ。 フィリアはそれに気がつくと、すぐに杖を取り出して身構えた。 「あのときは世話になったな! 今日はその礼をくれてやる!」 男が杖を天に掲げた。 その先端がぼんやりと光ると、男は杖を振り下ろす。 光から次々に放たれる矢は、ばらばらの向きに飛びながらも、なめらかな曲線を描いてフィリアを狙う。 フィリアはそれを避けながら男に向かって走った。 握りしめた杖が輝かせる白い光は、水のようにうごめいてナイフをかたどった。 直後、ぶつかりあう音と共に、ナイフと杖は互いに接触しながら動きを止める。 「馬鹿め……」 力任せにフィリアを振り払う。 「小娘が!」 膝をついて起き上がろうとしているところに杖を向ける。 フィリアはさらに見えない力に弾き飛ばされ、その先にあったむき出しの岩に突っ込んだ。 「ぐっ……!」 岩のかけらがぶつかって傷ついたのだろう、フィリアの前髪の間から血が流れ出していた。 「てこずらせやがって……」 フィリアは目の前までせまっていた男を見上げた。 痛む腕を押さえながら、負けじとにらみつける。 「ジョン、何を遊んでいる?」 ジョンがとどめを刺そうと杖を振り上げたそのとき、低い声がかけられた。 「マシュー……、こいつだ。あのとき俺の邪魔をした小娘だ」 マシューはその言葉を受けてフィリアをなめるように眺めた。 体のあちこちに傷を負いながら、それでも立ち上がろうとするフィリアの姿は、牙の折れた獣のように小さく見えた。 「……どんなものかと期待していたが、口ほどにもない、ただのガキだったようだな」 マシューは鼻を鳴らして笑った。 「さっさと殺せ。薔薇十字団への見世物にはちょうどいい余興だ」 「命令されなくてもやってやるさ!」 ジョンが落ちたままの光のナイフを振り上げる。 フィリアは思わず目を閉じた。 覚悟は、まだできていない。 しかし、無情にも光のナイフは振り下ろされ、刃がフィリアを突き刺そうとした。 フィリアはその瞬間、音が聞こえていなかった。 それどころか、突き刺された痛みもない。 驚いて目を開けると、サンジェルマンの姿があった。 「な、なんだと!?」 サンジェルマンは、ジョンがナイフを振り下ろしたすんでのところを剣で防いでいた。 つばぜり合いで押し返され、弾き飛んだナイフは地面に突き刺さり、光の刃が解放される。 「キサマ、何をしにきた!」 マシューが叫んだ。 「仲間を助けにきたのだ!」 サンジェルマンの激しい剣幕はジョンはおろか、マシューさえも怯ませた。 いつの間にか隣にいたアンネリーゼがフィリアの怪我の手当てを始めている。 マシューは舌打ちをした。 「……場が悪い、引き上げるぞ」 マシューは貴族の外套をひるがえした。 ジョンが負け惜しみを言いながらそれについていった。 サンジェルマンはその背中をいつまでも見つめている。 「フィリアさん……?」 アンネリーゼが、自分に身を預けたままになっているフィリアを見た。 緊張がとけて、すでに気を失っていたようだった。 ---------------------------------------------------------------------------- フィリアが目を覚ますと、自分の部屋にいた。 窓の外はすでに暗い、今までずっと眠っていたようだ。 突如、腕に痛みが走った。 フィリアはとっさに腕を押さえたときには、もう傷が治りかけているのに気がついて、目を細めた。 「…………」 あれから何があったのか、フィリアにはわからなかった。 少なくとも部屋には自分以外に誰もいない。 今だけは、この静寂につつまれていたかった。 「……気がついた?」 その空間に割って入ってきたのはネイコスだった。 思いがけず目が合ったが、二人はつい目をそらした。 二人の間に重い沈黙がただよう。 空虚なプライドを守った結果がこのザマだ。 あのときに勝てていたならまだしも、負けてしまってはネイコスに面目が立たなかった。 彼女は私を笑うだろうか。いっそ今のフィリアにとってはそのほうがよかった。 「あたしがいなかったせいで……。ごめん」 フィリアはまずその言葉に驚いた。 ネイコスは自分に愛想が尽きたのだとばかり思っていたので、なおさらそれが信じられなかったのだ。 気がつけば、フィリアは泣いていた。 ネイコスが戻ってきたから? それとも怖かったから? そのときのフィリアには、理由なんて到底わかりはしなかった。 ただただ、胸の奥底からこみ上げる何かが涙に姿を変えて溢れ出る。 それをこらえられないでいると、暖かいものにつつまれる気がした。 ネイコスは何も言わずに抱きしめた。 そして、彼女はいっそう泣いたのだった。 しばらくして、フィリアが落ち着くと、タイミングを計ったかのようにサンジェルマンが部屋に来た。 隣にはアンネリーゼもいて、彼女は医療の道具類を抱えていた。 「元気そうでなによりだな」 サンジェルマンは頬をかきながらネイコスを見た。 「君は男とは恋愛をしないようだね? なるほど、私が嫌われるわけだ」 ネイコスは顔を真っ赤にしてサンジェルマンに襲いかかった。 わざと嫌な笑い声を出しながら避けたことが彼女の神経をさらに逆なでしたようだった。 「ネイコス、落ち着いて……っ、う……」 ネイコスをなだめようとのばした腕が痛んだ。 その様子を見たアンネリーゼが、手当てで巻かれていた布切れをほどいて、目を見開いた。 「傷が、ない……」 ほんの少し前まで腕に刻まれていたはずの傷は、すっかり無くなっていた。 大きな傷だったにも関わらず、それがあった跡さえ見えないほどに肌は回復していた。 「魔法か……?」 普段から冷静に振舞うサンジェルマンまでもが動揺を隠せないようだ。 「これなら薬は必要ありませんね」 「……すいません」 アンネリーゼは、薬草の葉が覗く袋の紐をそっと閉めた。 「あなたが謝る必要はありません。無事ならそれで……」 フィリアは一貫して口の端から端までを頑なに閉じていた。 ---------------------------------------------------------------------------- その日、フィリアは夜遅くになって突然目を覚ました。 隣で寝ていたネイコスは静かに寝息をたてていたが、寝言で自分の名前をよく呟くので、こっそりと頭をなでるのがフィリアのひそかな習慣になっている。 ひどく目が冴えていて、もう一度眠りに落ちるのは難しかったので夜の屋敷を探索しようと思ったのも自然なことだった。 薔薇十字団の本拠地たるこの屋敷は秘密結社のでもそれなりに広いのだ、このような退屈な夜を明かす興の一つぐらいは見つかるだろう。 そう思ってフィリアは暗い廊下に現れた。 壁にかかったふりこ時計の短針はまだ深夜を指している。 足音は室内にあちこちから響き、ロウソクの灯りに揺れながらフィリアの投影が一人歩いていた。 壁に空けられた出入り口から差し込む外の光が、床をとおって反対の壁を照らし出した。 その中に人影が浮かんでいる。 バルコニーにはアンネリーゼがたたずんでいた。 あまり表情が変わらない彼女の、はかなげな姿がそこにある。 表情は影に隠れてあいまいだが、頬を伝うしずくは月の光をいっぱいに満たして輝いていた。 華やかな舞台を思わせるシーンに思わず嘆息したのだった。 もしそれが本物の絵画であったのなら、フィリアはそのタイトルを決めかねていたに違いない。 「アンネリーゼさん……?」 急に自分を呼ぶ声に驚いて、アンネリーゼはフィリアを見た。 先ほどのような雰囲気はすでに涙と共にはじけて消えた。 フィリアはいらぬ声をかけたと後悔したが、役に入り込むつもりで思い直したのだった。 もちろん自分にふさわしい役を。 「こんな時間にどうなさったのですか?」 「……なにも、ありません」 アンネリーゼは視線を戻した。 その先を探すと、一つの部屋に行きついた。 カーテンもひかれていない窓からは、魔術にはげむサンジェルマンの姿がちらりと見えた。 「癒えぬ病にお困りでしょうか。私に秘薬の技がございます」 「その申し出を、あいにくながらお断りいたしましょう。私は禁断の果実を喰らうつもりはありませぬ」 そう言ってもアンネリーゼの頬は赤い。 フィリアは何も言うまいと笑顔を浮かべた。 それからは不思議な時間が流れていたようにも思われる。 しばらく間をおいて、アンネリーゼが言った。 「どうして、わかったのですか?」 凍てつく夜にほとぼりもすっかり冷めていた。 アンネリーゼも普段の調子に戻ったようだ。 「女同士ですから。……経験はありませんが」 フィリアがそう言葉を付け足すと、彼女はくすりと笑ったようだ。 「いつまでも夜風にあたっていてはお体に障りますよ」 アンネリーゼは風邪をひいてみるのも悪くはないなと、窓越しの彼を見つめては表情をほころばせたのだった。 月が傾いてきた。 もう数時間も経てば山の向こうに沈んでいることだろう。 そろそろフィリアにも眠気がまとわりついてきた。 魔女の役目はもう終わったのだ。あとは終幕の裏側へ。 「よい夜を」 それだけ言ってフィリアは去った。 カーテンコールを求める声も彼女にかけられないままに。 ---------------------------------------------------------------------------- 翌朝、広場は喧騒で溢れかえっていた。 中央には地面に突き刺された杭が立ち並び、それぞれに人が性別や年齢を問わず縛りつけられている。 その中にはあのとき薔薇十字団が助け出した女性の姿もあった。 ジョンはそれを見てほくそ笑んだ。 「これだけの人数が集まれば、手数料もかなり出るだろうぜ」 最終的な儲けを数えるジョンを横目に、マシューは沈黙したままだ。 彼が火刑の場に立ち会うときは必ず今のような寡黙な男になる。 「相変わらずのしけたツラだな。同情してやがるのか、天下の魔女狩り将軍がか?」 からかうような挑発をしてもマシューは何の反応も返さない。 ジョンはこのようなときのマシューを見ては、つまらなそうに足元の小石を蹴飛ばしたのだった。 だが、それも今日で終わりだと思うと、ジョンには非常に愉快な姿でもあった。 杭に磔にされたままの彼らの足元には薪が重ねて置かれている。 大衆が見守る中、魔女の火刑が今まさに始まろうとしていた。 「これから処刑される気分はどうだ? なに、怯えることはねえ。死んだらすぐに穏やかな眠りがやってくるさ。もっとも地獄に平穏があるかどうかは謎だがね」 ジョンは彼らを冷たく笑い飛ばした。 口々にののしる者もあれば、諦観した様子の者、救いをこいねがう者などさまざまあった。 しかし、いずれも彼には魔女たちの悪あがき程度にしか見えていなかった。 マシューが引き連れた兵士たちが薪に火をつけようとしたそのとき、静止の声がかかった。 「何をしている!」 振り返るとサンジェルマンたちの姿があった。 「愚かな魔女を処刑するだけだ」 「そのような愚行をいつまで続けるつもりだ!」 マシューはその言葉を受け、まなじりを裂いて叫んだ。 「愚行だと? それが同じ罪を犯した者の言葉か! サンジェルマン……、いや、ローゼンクロイツ!」 広場の人々の間に動揺が走る。 何より驚かせたのは、その意味するところがおぼろげながら見えてきたことであった。 だからこそ、フィリアの心は今までに無いぐらいにかき乱された。 「……どういうことですか?」 おぼつかない様子でようやく投げかけた言葉だったが、サンジェルマンはあえて答えようとはしなかった。 マシューが驚きを隠せない様子のフィリアを見る。 「知らぬとは幸せなことだな、小娘。いいだろう、教えてやる」 マシューは静かに語りだす。 蘇るのは幼いころの過去の記憶、今でも鮮明なほどに彼はその瞳に焼き付けていたのだ。 顔が醜く歪む。 「魔女狩りと時を同じくして、俺の家族はサンジェルマンに殺されたのだ。あのとき、俺は誓った! 理想のためとうそぶき、故郷もすべて焼き払ったあの悪魔のごとき男を殺すとな!」 フィリアが反論する。 「彼がそんなことをするはずは……。何のために!」 正義に燃える彼の姿とは別の、裏の顔をフィリアは信じるはずがなかった。 信じたくなかったのだ、同じ理想を目指していた男の、そのような姿などは。 「何のために? 少なくとも金ではなかったようだな! だが、奴は魔女狩りによって力を手に入れたのだ!」 「どういうことですか……?」 予想もしなかった答えだった。 フィリアにはどのようにそう繋がるのかがわからない。 「魔術とは、意志の力だ。ならば『魔女』に仕立て上げられた人間はどうなる?」 フィリアの脳裏にある考えが浮かぶ。 ようやく見えてきた答えがそこにはあった。 意志の力、つまり人の心。 それが現実を少しずつ変化させていくことが魔術の基本だ。 運命が世界を定めるのではなく、心が世界を定めていくことを、フィリアは知っていた。 だが、それが魔女狩りに繋がるなどとは。 「まさか……!」 マシューは驚愕の意味を察した。 フィリアが言い切れなかった言葉を、彼は冷酷にも突きつけた。 「奴は、魔力を得んがために『魔女』を生み出したのだ!」 何かが崩れ去った。 そのときの喪失感を一言で表せば、人はそれを絶望と呼ぶのだろう。 フィリアは、その場に力なく座り込んだのだった。 「御託はそこまでだ。刑を中止しろ!」 サンジェルマンが叫んだ。 「それは時に臨んでの贖罪か! 許しを請おうともキサマの罪は俺に永遠の爪跡を残したのだ!」 胸の前で握りしめた彼の拳は、爪が食い込んで血がにじみ出ていた。 「あのときの屈辱、俺は一度足りとも忘れたことはない。キサマには死で償ってもらうぞ!」 マシューが剣を構えて猛進した。 サンジェルマンはとっさに応戦する。 さらに二、三度続けて剣を交え、ぶつかりあう音が何度も広場に響く。 「アンネリーゼは縛られたままの人たちを頼む!」 「させるか!」 その言葉を受けて彼らに走り出したところでジョンが火を放った。 油のかかった薪は激しく燃え上がり、さながら燎原の火のごとく彼女たちを寄せつけないでいる。 さらに兵たちにまで槍を構えられては、炎を鎮めることさえままならなかった。 油が染みこんだ服にまで飛び火した彼らを、骨までも焦がすような熱気から救う術はなく、歯ぎしりをしながら見つめるしかなかった。 あたりに彼らの断末魔の叫び声が轟くのを、フィリアは耳をふさぎたい一心で聞いていた。 「どうした、その程度で終わるつもりか!」 垂直、水平、斜めに突き。 さらに下方からの切り上げが襲いかかる。 次々に剣戟が飛び交い、機を見つけては魔法を叩きこむ一瞬さえなかった。 それほどまでにマシューは剣の腕を磨いていたのだ。 サンジェルマンはただそれをいなして避けるのみ。 防戦一方の彼には、明らかな敗北が目に見えていた。 再び剣がぶつかったまま動きを止めたとき、にらみ合うサンジェルマンの額からは一筋の汗が流れ落ちた。 次の瞬間には弾き飛ばされた剣が空を舞い、フィリアのすぐ前に突き刺さる。 見れば、サンジェルマンが地面に片方の膝をついていた。 「思ったよりあっけなかったな……」 そう言いながらサンジェルマンの首もとに剣を突きつけた。 彼は背後に退こうとしたが、傷つけられた足では動くに動けなかった。 「くっ……!」 もはや逃げ場は無い。 「これで終わりだ。恨むなら己の運命を恨むがいい」 マシューが剣を振り上げたそのときだ。 「死ね! マシュー!」 ジョンが叫んで、杖を振る。 フィリアのときと同じ、無数の光の矢がマシューを狙う。 マシューはすぐに飛び退いて難を逃れたが、矢は狙いをサンジェルマンに定め、そして―― アンネリーゼの胸元を、深くまで貫いた。 「う、あ……」 捨て身の盾となったアンネリーゼはその勢いで倒れる。 「アンネリーゼ!」 サンジェルマンはそれをなんとか受け止めた。 受け止めることしかできなかった。 「伯爵……」 「喋るな! 血が、血が……!」 血が流れ出る傷口を抑えようとしたサンジェルマンの手を、アンネリーゼがつかむ。 とぎれとぎれになりながらも、伝えようと必死になって出した声があった。 「いいのです……。これが使用人である、私の役目……」 「そんなことは関係ない! 私は、私は……!」 何かを言いかけた彼の口を、アンネリーゼは指ですばやく封じた。 たった一本の指だけで、彼はそれを永遠に心にとどめざるをえなかったのだ。 「生きてください、伯爵。夢のために、あなたのために……」 アンネリーゼはそれだけを言い残して、静かに目を閉じた。 「アンネリーゼ……」 そのとき、おそらく初めてサンジェルマンは泣いた。 声を押し殺して、しかし湧き上がってくる思いだけはとめられない。 涙が彼女の頬に落ちた。 しかし、何度嘆いたところで物語のようにはいかないのだ。 ただそこには空虚な重さだけが残っていて、それがいっそう彼の心を引きずった。 「ちっ……。馬鹿な女だ、そんな男のために身を投げ出すとは……」 せせら笑いを浮かべたジョンを、サンジェルマンはにらんだ。 全身からの憎しみは蛇の目となってジョンにたたきつけた。 その凄みに思わず一歩下がったところを、さらにマシューが斬りつける。 剣尖がたどった道筋にそって、血は噴き出した。 ジョンは最後に辛辣な言葉を浴びせて、絶命した。 「なぜ殺した!」 「俺が殺される前に殺した、それだけだ」 「きさまあ!」 サンジェルマンは腕を振りかぶったが、マシューには軽くあしらわれた。 力の勢いだけが空振りして、アンネリーゼの隣に倒れた。 「どうだ、ローゼンクロイツ。大切な人を失った悲しみは! 今のキサマと同じものを俺に与えたのだ!」 サンジェルマンは手をついたままで、視線がぶつかり合うこともなかった。 あとに残されたのは、とめどなく溢れる悲しみだけ。 マシューはうな垂れる男の憐憫さを冷たく眺める。 「今日はここまでだ。次に剣を交えるときはその憎しみを力にするがいい! 俺はそれをたやすく打ち砕いてくれる!」 彼の怒りはそれだけではとどまらない。 すでに燃え尽きた人々の骸がぶら下がるだけとなった杭、その前で呆然としていた二人を見た。 「その二人も殺しておけ!」 無慈悲な指示が下されたのだ。 すぐさまフィリアは捕らえられた。 抗ったネイコスも同じように、杭と彼女たちを繋ぎ止める鉄の鎖はその冷たさでしめつける。 「放せよ! この野郎!」 ネイコスは怒鳴りつけたが、それは聞き入れられるはずもなかった。 なんとか逃れようと暴れたが、固定された杭が倒れるようなこともない。 「諦めないでよ! フィリア!」 何度も呼びかけてもフィリアは押し黙ったままだった。 ただ、噛みしめるあまりに切れた唇から血が垂れていた。 足元にくべられた薪が燃える。 火は瞬く間に大きくなり、すでに足まで達した業火が二人を窯よりも熱く焼き付けた。 二人を心配そうに見つめる人々からも、救いの声は上がらない。 万事休すとネイコスはきつく目を閉じた。 「う……」 フィリアが苦しみ始めた。 熱さによるもがきではない、もっと別の苦悶の表情があらわになっていた。 壁のように二人を覆い隠した火炎が突如、大きく揺れた。 不自然な動きにどよめく声があがるも、その動きはさらに激しさを帯びていく。 フィリアの足元で揺らめく炎は、彼女の周囲に渦を巻いて燃え上がり、そして……。 すべてを焦がすほどの熱の風。 彼女の背中に、天まで燃え広がらんとする双翼をそれと共に生み出した。 「な、なんだこれは……!」 さしものマシューも声を上げた。 立ち去ろうとした足取りを止め、振り返ったそこにはまだ見ぬ光景があったのだ。 燃え盛る炎の中、フィリアは鉄の鎖をあっさりと引きちぎった。 驚きに目をしばたたかせる周囲には目もくれず、フィリアはネイコスを助け出して飛んだ。 町の外へ、赤い軌跡を残して。 ---------------------------------------------------------------------------- その日の夜の内に、薔薇十字団の屋敷に火がつけられた。 マシューの仕業ではなく、場所をかぎつけた民衆が起こしたのだ。 ただでさえ乱れていた民衆の心に追い打ちをかけたのは昼間の騒動だった。 中でも衝撃的なのはフィリアの炎の翼だったのだろう。 新しく町に来たフィリアのうわさは、よからぬ形ですぐさま広がっていたのだ。 やり場のない現実を恐れ、疑いの目をむけるには、そのようなよそ者は格好の的だった。 悪魔と騒ぎ立てて追い詰める民衆がまさにそのことをを示していた。 煙が立ち上る屋敷の惨憺たる有様に、フィリアは言葉を失った。 彼がいたあの部屋が、彼女が泣いていたあのバルコニーが。 何もかもが炎につつまれていたのだ。 愛着が湧くほどの時をここで過ごしたわけではないが、なぜだかやたらに悲しかった。 それほどに彼女を失意のどん底に突き落とすには十分すぎる火事だった。 「……あいつは、ローゼンクロイツはどこだ?」 マシューが言ったが、フィリアには答えられなかった。 サンジェルマンはアンネリーゼの葬儀が終わるとすぐにどこかへ行ってしまった。 それきりフィリアは彼の姿を見ていない。 「逃げたか……。あとは、この場に残っているお前たちだけだ」 剣が二人に向けられる。 何を言ったところで見逃してもらえないのは明白だった。 「あの炎の翼、見せてもらったぞ。お前に眠る魔法の力、俺が残さず奪ってやろう」 そこでフィリアは口を開いた。 「あなたは、なぜこんなことを。復讐のためですか?」 「そうだ、俺は復讐のためだけに生きてきた。今までも、これからもだ。だとすればなんだ! 何が言いたい!」 「……もうやめてください。復讐からは、何も生まれない」 「黙れ! 黙れ黙れ!」 マシューが憤怒の形相で怒鳴りつけた。 歩んできた道を、フィリアはさも知っているように話したことが彼には気に食わなかった。 「マシュー、あなたは……」 「うるさい! ……死ね!」 ゆっくりと歩み寄るフィリアに向かって、魔法を使った。 彼の剣先の黒い光は禍々しくて、それは何よりも暗い。 「フィリア!」 ネイコスが叫んだ。 その黒い刃を、避ける素振りを見せることなく待ち構えた。 刃は容赦なく心臓を貫いて、フィリアはそのまま倒れるかのように思われた。 しかし、フィリアは立っていた。 何事もなかったかのように。 「…………復讐なんてしたところで、どうにもならないのですよ」 貫いたままだった刃が消えた。 そこに残るはずの傷は少しずつ小さくなっていき、しまいには衣服の穴も含めて完全に癒えていた。 「馬鹿な……。お前はいったい……」 マシューは次を探したが、ついには言葉を失った。 その様子を見たフィリアがぽつりと話し始まる。 「以前、私が住んでいた村のことです。そこでも魔女狩りは起きて、……親友が殺されました」 マシューは黙って聞いた。 戦意などはとっくに無くして、くすぶっていた。 「気がつけば、私は魔法を使っていました。……召喚の魔法を」 「あの炎の翼は……、フェニックス、か」 フィリアが頷く。 「火は何もかも焼き払い、代償として私は不老不死になりました。永遠を生きろと、そう言われて」 そうして黙り込んだフィリアを、マシューは今までとは違う目で見つめた。 自分が進むはずの道の先を、すぐ目の前に見定めて。 しかし。 マシューはフィリアに向けて手をかざした。 「魔力を、奪うつもりですか?」 「いまさら、後戻りはできぬ」 「…………」 フィリアはもう何も言わなかった。 体から力が抜けていくのを感じていた。 「ぐっ……!」 突然、マシューが胸を押さえて、膝をついた。 常軌を逸する苦痛に声を上げた。 「やはり、体は耐えられませんでしたか……」 「どういうこと……、だ」 「あの力は大きすぎるのです……。人間の体に、収まりきらない」 それを聞いてマシューは笑い出した。 その声は少しずつ、やがて大きくなった。 「そうか……、そうか!」 一人そう叫んで、彼は笑った。 そして、地面に倒れた。 「マシュー……!」 「来るな! ……これが俺の運命だったんだ」 フィリアは彼に駆け寄る途中で立ち止まるしかなかった。 「これが死か……、悪くない気持ちだ。俺にはお似合いの最期だ……」 彼は自身を皮肉って笑った。 「無様な男からの頼みだ。……ローゼンクロイツをとめてくれ。奴は黄金郷にいるはずだ」 「……どうして?」 「魔力も元素から成る……。そして、金は単一の原子だけでできている……」 フィリアの中で、一本の糸が繋がった。 「つまり、金は……、黄金郷は!」 「さあ、行け! 俺に構うな!」 フィリアは走り出した。 途中、杖を振って。 『我が望むは友の力、永く留めよ水面の誇り。召喚、ドラゴン』 魔法で呼び出したドラゴンに乗って、まだ明けきらない夜の空へと舞い上がる。 マシューはそれを見て驚いたが、すぐに歪な笑いに戻していた。 「そうだ。それでいい、……フィリア」 そう言い残して息を引き取ったマシューを、ネイコスは静かに見つめていた。 ---------------------------------------------------------------------------- 黒い空もようやく白み始めた。 わずかに差し始めた夜明けを受けて、竜の背から見晴るかす海はいよいよ青く。 その上に浮かぶ大陸に至るには、まだしばらくの時間を要した。 大陸に降り立つと、フィリアはすぐに走り出した。 目的地がどこかもわからないまま、それでも走らないではいられなかった。 ドラゴンはその特徴を残した少女の姿へと変わり、考えもなく突き進むフィリアを追った。 目印などない森をただ駆け抜けた。 代わり映えのない木々の間をくぐり抜けていくうちに、急に森がとぎれる場所についた。 まばゆい光に目がくらみ、おそるおそる開いた先には獣も入らぬ秘境があった。 その地を満たした金色は、奥の渓谷より注ぐ水の堀からそびえる柱にいたるまで。 深淵な森の海の孤島に、黄金郷は眠っていた。 中央に立つ、豪奢な建造物の前に、彼の姿はあった。 名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り向く。 「きたか……」 サンジェルマンはつぶやくように言った。 「マシューはどうした?」 フィリアは声をくぐもらせる。 サンジェルマンは彼女の気持ちを察してか、すぐに話を変えた。 「……それより、見るといい。伝説は真実だったのだ」 建造物を仰ぐ彼の目はかつてないほどの喜びに満ちていた。 「黄金のために、いったい何人が命を落としたのか。我々はこの地を封じねばならない……」 彼女に向かって手を差し伸べた。 「君の力を貸してくれ、……フィリア」 フィリアは返事をしなかった。 「……なぜだ。君まで私の目的の邪魔をしようというのか?」 その問いかけにはフィリアはすぐに答えることができた。 同じ夢を持っていたから、だが。 「邪魔をするつもりはありません。できることならば、私もあなたと共に理想を目指したい」 フィリアはいつかのように手を固く握りしめた。 「……ですが、あなたはやり方を間違えているのです。犠牲の上に成り立つ平和など、あってはならない」 「人は何かを得るために、何かを失ってきたのだ。ある目的のために、君は遠回りをしていくのかね?」 「あなたは、それが茨の道であっても進もうというのですか!」 フィリアは烈火のごとく激昂した。 その勢いたるや、噴き上げる火よりも凄まじい。 動じることもなく冷静に肯定した。 「一刻も早く平和を実現せねばならぬのだ。未来のために、人類のために」 「たとえ、どんなに素晴らしい目的があったとしても。志半ばで倒れてしまっては何の意味もないというのに……」 「……君とは、これまでだな」 サンジェルマンはそう言って顔を覆った。 「あなたとはもっと違う形で出会いたかった。サンジェルマン伯爵、……いいえ、ローゼンクロイツ」 まっすぐに彼を見つめて、フィリアは言った。 彼はすぐさま目をそらし、再び黄金郷を仰ぎ見た。 しばし沈黙が続いた。 お互いに口を開かないまま、時間だけが空しく流れていった。 静寂を最初に破ったのはフィリアだった。 「金、……魔力も元素であるならば、それはすなわち魔力の結晶」 彼女の言葉に繋げる。 「そして、ここは言うなれば魔法の世界なのだ。……これが黄金郷の真の姿だ」 そう言って急に肩を落とした。 「だが、これだけの力を私には扱うことはできない。そう、私には」 彼は炎の翼を知っていた。 それ故に、彼女とは戦おうとはしなかった。 次に、黄金郷を海に沈めることも考えた。 それも無理だと気づいたときには、彼は己を無力さを呪ったのだった。 いずれにせよ、不可能を悟っては絶句した。 彼らがここを諦めたとしても、必ず欲に溺れた誰かがやってくるだろう。 とめることはできない。 もはや自分には彼女からの信頼も残ってはいなかった。 「この黄金郷は、あなたが犠牲にしたものを少しでも多く取り戻すために、私が使います」 「……それは、あいつの頼みか」 フィリアは静かに目を閉じて、杖を掲げた。 呪文を唱えると、黄金郷はほのかに光を増した。 光は粒となって立ち昇り、金がはがれるように消えていく。 同時に、どこかの町では同じ光が包んでいることだろう。 その輝きが終わるころには、黄金郷はただの岩の遺跡へと姿を変えていた。 大地が揺れ動いた。 周囲から響く轟きが破滅の足音を鳴らしていた。 揺れはさらに激しくなり、耐え切れず折れた柱や屋根が落ちては砂塵を巻き上げた。 そのときの衝撃も加わって、あちこちには地割れが起こっていた。 彼は震動を受けて、後ろに倒れこんだ。 立ち上がる気力も失せて、背を壁に預けてしまった。 「ここはもうすぐ崩壊するだろう。早く逃げたまえ……。私の夢は潰えたのだ、あとはここで死を待つのみ……」 フィリアはそれに答えない。 一歩一歩を強くかみしめるように彼に向かう。 そして、手を差し伸べた。 「生きなさい、ローゼンクロイツ! アンネリーゼのために。あなたのために!」 彼は目を見開いた。 一瞬で、記憶が頭をよぎる。 走馬灯のように駆け巡る思い出、その懐かしさに目を閉じた。 彼は手をとり、立ち上がって。 フィリアを突き飛ばした。 思いがけない行動に、フィリアはその場で座り込んだままだ。 「……薔薇十字団の創始者であり、団長である私からの最後の命令だ。……カッセルへ帰れ、そして私の死を伝えよ」 「しかし……」 「早く行け!」 「…………ッ!」 出しかけたものをはばまれて、フィリアは何もできなかった。何も言えなかった。 踵を返して、ドラゴンに近づいた。 「帰りましょう……」 「おい、待てよ! それで本当にいいのかよ!」 ドラゴンは叫んだ。 目をあわせようとしないフィリアに彼女の不満をぶつけた。 「主人の命令です! カッセルまで飛びなさい!」 フィリアは本来ならそのような高圧的な言葉を使わないことを、彼女は知っている。 だから、このときは彼女も言い返さないで受け入れた。 「……わかった」 ドラゴンはフィリアを乗せて飛び去った。 一人残された彼はその後姿に思いを馳せて。 「……後は任せるぞ」 ついに建造物の壁にも亀裂が走った。 彼の足場も限界が近い。 信じた正義が、追い求めた理想が、何もかもが崩れていく。 彼は何を思うだろうか。 気がつけば、彼は笑っていた。 ただ、笑っていた。 その声は終わりを告げる晩鐘の音に飲み込まれ、彼は崩れ去る黄金郷と共に消えていった―― ---------------------------------------------------------------------------- 穏やかな波がただよっていた。 上空から眺める大陸ははじめからその形であったかのように。 ぽっかりと欠けた一部を、フィリアは見つめていた。 彼女はずっと黙っていた。 その時間がいつまでも続くようだった。 「……行きましょう、ドラゴン」 彼女がぽつりとつぶやいた一言で、ドラゴンはゆっくり東を向いた。 羽ばたきを始めると、彼女はふと思い立って、マントの止め具に手を伸ばす。 輝いていた金のブローチを引きちぎり、力いっぱいに投げた。 それは瞬きながら落ちて、静かに波間へ吸い込まれていく。 「高く飛んでください。できるだけ高く」 遠ざかる海を、フィリアは決して振り返らない。 ドラゴンは言葉のとおりに上昇を続けた。 山よりも雲よりも高みを目指して。 あれほど立ち込めていた雲の切れ間から、日の光が差している。 その向こうに晴れ渡る青空がある。 空はどこまでも澄んでいて、そして悲しい色をしていた。 ---------------------------------------------------------------------------- 何日か経って、二人は再び東を目指していた。 特に会話はないが、違うのはこれまでになかった沈黙があることだろうか。 「あいつさ」 唐突に口を開いたのはネイコスだった。 言うに言えなかったのだが、そのことだけはどうしても伝えなくてはいけない気がした。 「最期に、名前を呼んだんだよ」 「……そう、ですか」 フィリアは初めは目を丸くしたが、すぐもとに戻ったようだ。 ネイコスにはそれが何であったのか、うすうすわかってきていた。 それは隣を歩いている彼女も同じだろうが、今さら何かが変わるわけではなかった。 ネイコスは頭を抱えた。 言うべきではなかったかと様子を伺ったが、彼女はやはり黙ったままだった。 なんだかいてもたってもいられなくなってきて、ネイコスは別の話題を切り出した。 「……ブローチは、どうしたのさ」 フィリアはちょっとだけ間をおいて答えた。 「捨てました。……今頃は海の底じゃないですか?」 「とっておけば旅費になったのに」 「私には、必要ないものです。それに……」 ネイコスを見つめる。 「あなたがいますから」 フィリアがはにかみながら言った。 その屈託のない笑顔に、ネイコスは安心して照れくさそうに笑った。